父の死というものについて

父の死について、一度文字を残してみようと思う。

わが家は私が小学校1年生くらいのとき(たぶん)に両親が離婚した。
私は末っ子で、女の子であるがゆえに父に大変溺愛されていたと思う。
私も父のことが(当時は)大好きで、離れて暮らすことは悲しかった(ような気がする)し、別居中や離婚後もよく父の家に泊まりにいっていた。
※私は過去の記憶があまりなく、多くの表現が「たぶん」や「おそらく」になります。

父は風呂なし激狭アパートに住んでいて、私が泊まるときはいつも銭湯にいっていた。
洗濯機もないため、一緒にコインランドリーに行くと、その帰りに自動販売機で『紅茶花伝』を買ってもらえることが毎回特別な楽しみだった。(夏になると500mlのメロンソーダにすることもあった)

父はオリジナルの創作ストーリーを書いていて、たしかマリルだかマリロだか何かしらのウサギが主人公の冒険物語を、いつも寝る前に読み聞かせてくれた。その話がなかなか凝っていて、毎回つづきを聞くのがとてもたのしみだった。(未完のまま、その後どうなったのかはわからない。)

いつの頃か忘れたけれど、父は実家のある大阪に帰ることとなり、東京の私とはほとんど会わなくなった。
母との暮らしのなかで、私は父のネガティブな情報を聞き、長い間「父は最悪な人間だ」と思っていたけれど、大人になるにつれ父と母という存在をそれぞれ客観的な「1人の人間」として受け取れるようになり、特にどちらの肩を持つというような考えもしなくなった。(それぞれの背景や、時代や環境など複合的な要因があるんだと思っている。)

そんな関係の父が、数年前に死んだ。死んですぐ私たち兄弟に連絡がきて、みんなで仕事を休んで大阪に行き父の葬儀に参列した。全員一致団結で「相続放棄」をし、父方の親族とも話し合い、双方和解というかスッパリ縁が切れたように思う。

父の訃報を受けて、そして葬儀に参列して父の顔をみて、そしてそこから東京に帰ってきて、それから数年が経ち今日に至るまで、私は父の死に対して「何も感情が沸かない」という自分自身に少し関心を持っている。

父が死んだことに対して、突然の遠方から(兄経由で)の連絡に「びっくりした」という感情は起こったが、それ以外に悲しい、寂しい、ショック、憎らしい、悔しい、清々しい、大好きだった、切ない、などの感情がまったく一ミリも湧き出ず、本当にピクリとも「心が動かない」状況だった。

とても大切なものを失うと、心が自我を守ろうとして思考停止になるというパターンも考えられるかもしれないが、私に当てはめるとその説は微塵も該当しないと思う。本当に、ただシンプルに、「何も思わない」の一点である。

この状況が、あまりにも人間としての心を持っていないというか、私ももしかしたら実はすごくショックを受けていて、自分でその感情を押し殺してるのかもしれないと少し期待したが、数年経っても相変わらずの現状なので、やっぱり結局私は何も思っていないのだと思う。人として薄情なのかな、と思ったり思わなかったり。

そんな私が、なぜ突然父のことを書こうと思ったのかというと、やはり今の自己を形成するベースは両親からいただいたものが大きいんだとふと思ったから。おそらく、とくに幼少期から「そのままで愛される自分」「何もしなくても大切な存在」ということを叩きこまれたのは、人間形成において非常にありがたいことだったと思う。

うちの両親は子どもに(少なくとも私に)何か強い要求をすることなく、明らかな貧困層ではあったけどある程度自由にさせてくれて、早いうちから心身の自立ができたのは、根本的な「存在の肯定」があったからじゃないかと最近思うようになった。

高校生のときに、一度だけ大阪の父に会いにいった。絶賛思春期な私にとって、久しぶりに再会する父はその当時の私には「解せない存在」で、とくに喜びも何もなく、ただ残念な気持ちを抱えて帰った記憶がある。(思春期だから当たり前の感情)

で、確かそのときか、そのあとかに父から小さなノートを受け取った。その中はほとんど白紙だが、ほんの数行だけ父が私に向けたメッセージが書き込まれていた。そこには、「自由とは、自分に由ること」という文字がある。父は、おそらくこの言葉を大切にしていたのだと思う。そして、この考えは今の私にすごく合致する。たまたまなのか、遺伝なのか、環境なのかわからないが、父の考えと私の考えがリンクしていて、おもしろいなと思う。

父は、人としては大変不適切な部分もあったと思うけれど、幼い私にとっては「自分を可愛がってくれるお父ちゃん」で、その事実はあとからどう捻じ曲げようとも変えることはできないのだろう。ただただ「愛された」という記憶は、今もしっかりと私の真髄に残り、私が子どもに対して同じように溺愛してしまうのは、遺伝形態のひとつなのかもしれない。(虐待は遺伝するという考えも聞くし、その逆もあるのかもという考え)

もちろん幼少期の父だけでなく、生まれたときから大人になるまで、今もずっと私の支えとなってくれている母の存在は何よりも大きい。誰かに大切にされた記憶は、きちんとどこかで誰かを大切にすることにつながっていくのだろう。自分のことを理解するとき、ヒントを過去に求めようとするけれど、そこにはきちんと解(だと思えるもの)がありそうだが、それは「どのタイミングで」「いつの時期を振り返るか」によって大きく受け取り方は変わる。結局は"現在"からの意味づけによって過去はどのような解釈も成り立つ、ということなのかもしれない。

まったく移住と関係ない更新。おやすみなさい。

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Posted by marie432