比較する人の中に埋もれる不幸感

比較する人の中に埋もれる不幸感

自分の幸せや価値基準などを

他との比較により成り立たせることがある。


私自身も何か迷いが生じた時、判断に窮する時、よく吉田兼好や新渡戸稲造などの本を引っ張っては今の自分と近しい一文などを探し出して「自分だけじゃない」「尊敬する人も同じような道を進んでいるはずだ!」


などと何かや誰かと比較?照らし合わせ?をして、

その確認作業により自己を肯定化することがある。

でも、これが自分の価値基準のほとんどを占めてしまうと、

本当に醜い顔も性格も魅力のない人間になってゆくのだな、

と、一昨日思いました。


負けず嫌いという感情は、成長を促すためにはとても大きい要因になってくれると思うし、プラスに働くこともある。


だけど、誰かとの「勝ち負け」や「認められたい」という価値基準にいちいち左右されて全てが支配されてしまっている人間の周りからは

自発的な幸福感というものが出ないのだな、ということが分かった。


そして、そういう人間のそばにいると、

そばにいるこちらまで歪んできてしまうから、(これは他責しているのではなく、自然の摂理)

きちんと自分から適当な距離を保たなければならないなぁと、
気付いた一昨日。


こういう循環は、非常に人を苦しめる。

大変申し訳ないのだが、私はそういう人を見ていながらその行方を気づかせる気もさらさらない。

どんどん不幸の溝へサヨウナラ、どこかの親切な方に教えてもらえるといいね、とだけ心の中で呟く。


もちろん、本人もそんなことは望んでいない。

たとえお告げをしたところで、

「お前には分からない、お節介だぜ」

くらいとしか受け取られないことも目に見えている。


こうやって、周りは目を逸らし、

どんどんエンドレスな多不幸スパイラルに陥ってゆく、人間の性なのかなぁ。


誰かに認められないと自分を保てないことは大変危うく脆い状態であるよ、と、私なら思うのですなぁ。


自分の幸せは自分で決めるしかないし、自分で作り出すしかない。


そしてその感度がしっかりと礎を築いたとき、

勝手に幸せの輪はまわりに広がる、

気付いたときには自分がその発信源にいる、


「生かされていてよかったなぁ」と、命に感謝できる。


そしてこれは持続可能で終わりがない。だから死ぬまでずっとハッピー、もしかしたら死んでもずっとハッピーかも。

でもこれは自分で自分に恥じない生き方をするしかない。

胸を張って今死ねるか、と問い続けなければここまでは達しない。


そしてそんな度胸や労力を日々背負って生きる人はきっと早死にする。

だってドキドキが半端ないもん。


毎日はできないけど、意識的に問い続けてはいるよ、

こんな私でも、本気で生きているのだよ。

本気で生きるとは、恥の多い人生なのぞ。

でも、恥じらいがあることは人間の証明だとも思うときがある。


恥じから逃げるなよ、と、いつかこの文字を読む自分に伝えておこう。

相手を肯定的に受け取り、あるがままを(理解できなくても)排除せず、その上で、愛があるのならば、正しい言葉を投げる。


その価値観が伝わる人とそばに居たいと願います。おやすみ。